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聖公会の始まり―国王の離婚でできた教派?

司祭 ダビデ 市原 信太郎

 以前、清里の清泉寮のロビーで、宿泊客がこんな会話をしていたのが聞くともなく耳に入った。「ここはイギリスの国教会系の教派でさ、王様が離婚したくてできた教派なんだよ。」

 この、「聖公会は国王が離婚したくて作った教派」という説明は一般に広く流布しており、実際、ヘンリー8世の離婚問題をきっかけとして聖公会がローマ教会より分離独立したことは歴史的事実である。しかし、「離婚をしたくて教派を作った」という認識は皮相的であり、正しい理解のためには、この問題を少し広い視野から背景を含めて理解する必要がある。本稿が、聖公会成立に関するこのあたりの事情を少し詳しく知って頂く機会となれば幸いである。

目 次

ヘンリー8世即位まで

チューダー朝家系図

 チューダー朝は、1485年のヘンリー7世即位に始まり、1603年のエリザベス1世の死去により終わるイギリスの王朝であり、聖公会(Church of England、イングランド教会、英国教会などとも呼ばれる)の成立はこの時代の出来事である。聖公会の成立の直接のきっかけとなった離婚問題は、チューダー朝2代目の王ヘンリー8世に関わるものである。

ヘンリー8世

 後にヘンリー8世と呼ばれることになるヘンリー・チューダーは、1491年、イングランド国王ヘンリー7世の第3子、次男として誕生した。王位継承順位は5歳年上の兄アーサーのほうが上位であり、本来ヘンリーは国王に即位することを期待されていなかった。

 兄アーサーは、アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベル1世(両国とも現在のスペインの一部)の末娘キャサリン・オブ・アラゴン(英語読み)と、幼少時(それぞれが2歳と0歳)に政略的に婚約させられていたが、アーサーが15歳であった1501年11月にイングランドにて結婚した。しかしながら、生来病弱なアーサーは翌年4月に重い感冒のため死去した。

 このために、当時10歳であったヘンリーが王太子となった。この際に、アーサー妃キャサリンの処遇が問題となったが、イングランドとスペインの関係維持のために、1503年ヘンリーとキャサリンとの婚約が取り交わされた。しかし、本来この結婚は宗教的に禁止されているものと考えられたため、ローマ教皇よりの特別の赦免を得てこれが行われた。ヘンリーが結婚できる年齢となるまで実際の結婚は延期されたが、その後も彼はこの結婚に抵抗していたと言われている。

 1509年、父ヘンリー7世の逝去によりヘンリー8世として即位し、その2ヵ月後にキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚式を挙げた。

離婚の動機

キャサリン

 4歳年上となるキャサリンは流産や死産を繰り返し、なかなか子に恵まれなかった。キャサリンはようやく1516年に女児メアリ(のちのメアリ1世)を出産するが、この子が無事に成長した唯一の子となった。

 この中で、ヘンリーは自分の王位を男子に継承させることを強く望むようになった。王位を争う内乱となったばら戦争に勝利して成立したチューダー朝であったが、歴史は未だ浅く、正統性についての疑義も提起される状況であり、王位継承権を主張する他の貴族の存在は潜在的な脅威であった。また、イングランドは女王の統治下で安穏であるのは困難と彼は考えていた。そのため、すでに年を重ねてこれ以上の妊娠が難しくなったキャサリンと離婚し、男児をもうけるために別の女性を王妃にしたいと考えるようになった。これは彼の個人的な希望にとどまらず、王家を安定的に継続することが国の安定のために重要であるということであった。

 その一方で、キャサリンとの関係が冷えたヘンリーは多くの愛人を持ち、子ももうけていたと言われる。その1人が、キャサリンの侍女であったメアリ・ブーリンであった。このメアリ・ブーリンの妹アン・ブーリンも同じくキャサリンの侍女であったが、ヘンリーは彼女にも愛人となるよう求めた。しかしアンはこれを拒絶し、正式な結婚を要求した。これをきっかけとして、ヘンリーはキャサリンと離婚し、アンを新しい王妃とすることを考えて、1527年教皇に結婚解消を願い出た。

結婚無効宣言とイングランド教会の独立

アン・ブーリン

 もともと、キャサリンとの結婚は宗教的に瑕疵があると考えられており、そのために教皇より特別な赦免を得たことは前述の通りである。今回はこの逆で、「もともとこの結婚は無効であった」という形でこの結婚許可の取り消しを求めたのである。しかしながら、当時の神聖ローマ皇帝カール5世はキャサリンの甥に当たり、教皇クレメンス7世は政治的に彼に頭が上がらない状態であったので、この離婚を認めることはできなかった。教皇は、イングランドにおいてこの問題を審議する教皇特使法廷を開催することには同意したが、この法廷も審議未了のまま閉廷され、この方面から離婚問題を解決することは困難であることが明らかとなった。そこでヘンリーは、イングランド議会の立法によって問題を解決する方向へと舵を切った。

 教皇との交渉に失敗したトマス・ウルジーは失脚し、代わってトマス・クロムウェルが台頭する中、反ローマ的法が矢継ぎ早に成立していく。1533年、上訴禁止法により遺言・結婚・離婚訴訟等が国王司法管轄権内で処理されることが命じられ、教皇座・外国法廷からの召喚,またそれらへの上訴を禁止して、国王離婚問題を国内で処理することが可能となった。しかもこの法は、国王による聖俗を問わない一元的支配を明示し、加えてイングランドが主権国家としての「帝国」であることを宣言して、教皇からの独立が主張されていた。そして翌年の国王至上法(首長令)によって、イングランド教会(国教会)はローマ教会より離脱して独立の教会となった。

 これらと並行して、国王が自らの離婚問題を意に適うように処理するため抜擢したカンタベリー大主教トマス・クランマーは、1533年、ヘンリーとキャサリンの結婚無効を宣言し、続いてすでに事実上の結婚状態にあったヘンリーとアン・ブーリンの結婚を有効とした。

再度の離婚

ジェーン・シーモア

 アン・ブーリンはこの時点ですでに妊娠中であったが、生まれた子はヘンリーの期待にそぐわぬ女児(のちのエリザベス1世)であった。その後アンからは子が生まれず、ヘンリー8世の心は彼女から離れていき、今度はアンの侍女であるジェーン・シーモアに心変わりしていった。また、アンが政治に介入してくることを快く思わぬ人々が少なからずおり、それらの人々はキャサリン・オブ・アラゴンやその娘メアリを支持するという形でアンの敵となっていた。

 1536年、妊娠していたアンは男児を流産したが、その直後にアンは反逆や姦通の罪に問われ処刑された。(この裁判の正当性は疑問とされている。)その翌日、ヘンリー8世はジェーンとの婚約を発表し、2週間後に正式に結婚した。

 1537年、ジェーンは待望の男子エドワードを出産するが、産後の容態が悪くそのまま死去した。

 その後もヘンリー8世はアン・オブ・クレーヴズ、キャサリン・ハワード、キャサリン・パーの3人の王妃と結婚し、1547年に死去した。当時9歳であったエドワードが王位を継承し、エドワード6世となった。

イギリスの宗教改革

エドワード6世

 ヘンリー8世はもともと宗教的には保守的な立場であり、ローマ教皇より「信仰の擁護者」という称号を授けられたほどであった。(現在でも、イギリス国王の称号の1つとして用いられている。)すでに述べたとおり、イングランド国教会がローマ教会と袂を分かったのはヘンリー8世の離婚問題が理由であり、教義的な対立からではなかった。

 大陸の宗教改革の流れはイングランドにも様々な形で伝わってきていたが、ヘンリー8世のこのような姿勢から、彼の存命中は表だった改革の動きはなかなか表面化しなかった。しかし彼の死後、抑えられていた改革者たちは自由を得、様々な改革が実行に移された。

第1祈祷書(1549)

 1549年に承認された「第一祈祷書」は、ヘンリー8世の治世に水面下で準備されたものが多く用いられた結果として、従来の礼拝様式に宗教改革的エッセンスを加えた、という印象が強いが、その3年後に公布された「第二祈祷書」は古いカトリック的要素の多くを廃し、宗教改革的性格が鮮明となった。弾圧を恐れて大陸に亡命していた多くの聖職者・神学者も帰国し、イングランドでの宗教改革がいよいよ進められるように見えた。

 エドワード6世の在位中は、年少であることもあり、摂政となったサマセット公(エドワードの母ジェーンの兄)、そして彼を追放した後にその地位を得たノーサンバランド公によって実質的には運営されており、宗教改革が進められたのは彼らの意図に寄るところも大きい。特にノーサンバランド公は、宗教的信念というよりも政治的意図からプロテスタント的改革を急速に推し進めていた。

メアリ1世

 ところがもともと病弱であったエドワード6世は、1553年、わずか15歳でこの世を去った。ノーサンバランド公はエドワード6世の死後、自分の息子をヘンリー7世(8世の父)のひ孫に当たるジェーン・グレイと結婚させ、彼女を即位させて影響力を維持することを考え、病床のエドワード6世にそのように遺言するよう迫った。しかし議会はこれを認めず、キャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリが即位して、メアリ1世となった。

 メアリはもともとスペイン出身の母を持ち、カトリックの信者であった。また、自身や母キャサリンを様々な形で苦しめた多くの人々に対する恨みに満ち満ちており、即位の翌年にはローマ教会への復帰を決め、またヘンリー8世のために便宜を図ったり、宗教改革を進めたりした多数の聖職者や貴族たちを次々と処刑した。その数はおよそ3百と言われる。(そのため、彼女は「ブラッディ・メアリ」というあだ名で呼ばれるようになり、現在ではカクテルの名前ともなっている。)

 このような弾圧に加え、メアリ1世はスペイン王子フェリペ2世と結婚し、それによってイングランドがスペイン対フランスの戦争に巻き込まれるに至って、国民の心は完全に彼女から離れた。失意のうちに、メアリは子を残すこともなく1558年世を去った。

エリザベスの宗教解決

エリザベス1世

 メアリに続いて即位したのは、ヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリンの娘、エリザベスであった。彼女はメアリの反動改革を離れ、再度国教会体制を継承することにより、国の安定を図った。その一方で、第2祈祷書をよりおだやかな形に再度改訂し、新旧の両要素の調和が企図されている。

 また、イングランド教会の信仰的立場の表明と言うべき「39箇条」を1563年に制定し、そこには現代まで継承されてきた聖公会の特徴とも言うべき「中道」が示されていると言える。端的に言えば、急進的なプロテスタンティズムに距離を置き、大陸の宗教改革を英国教会として再解釈する一方で、カトリシズムを単なる教皇中心主義とせず、古来より継承されてきた信仰として再確認するという、この両者を合わせた道を歩むという精神がそこにある。

 エリザベス1世の時代に成し遂げられたこの宗教政策は、「エリザベスの宗教解決」と呼ばれる。聖公会の持つ、「プロテスタントとカトリックの中間のような教会」という特徴の大きな理由は、このような成立の歴史に見いだすことができる。

おわりに

 聖公会に関して「国王が離婚したくてできた教派」ということがある意味での歴史的事実である一方、この理解に留まるのではあまりに歴史を表面的にしか見ていない、ということもお分かり頂けたであろうか。それにしても、結果としてこのような中から誕生した教派の流れに我々が属していることを考えると、「神はあらゆることを用いて働かれる」という思いを強く持たざるを得ないのである。

参考文献

なお、人物画はすべてpublic domainと宣言されているものを、https://en.wikipedia.org/より引用した。

著者:市原 信太郎(いちはら・しんたろう)
日本聖公会司祭、聖公会神学院・立教大学講師。聖公会神学院卒業、米国Church Divinity School of the Pacific修士(MTS)課程修了。著書は“Initiation in Aimai (Ambiguity): A Cultural Perspective from Japan”, Anglican Theological Review 95, no. 3 (2013), 473–78、「テゼ共同体の礼拝」、『キリスト教礼拝・礼拝学事典』(日本キリスト教団出版局、2006)など。

(本稿は、立教池袋中高『PTA会報』2015年3月号(第136号)に寄稿した原稿を改稿したものです。)

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