日本聖公会東京教区 聖アンデレ主教座聖堂

日本聖公会東京教区 聖アンデレ主教座聖堂のホームページです。

トップ > 読書室 > 「スピリチュアリティー」について

「スピリチュアリティー」(霊性)について

司祭 フランシスコ・ザビエル 高橋 宏幸
目 次

『奉仕職シリーズ』第3巻の発行によせて

『奉仕職シリーズ』第3巻が発行の運びとなりうれしく思います。今回は高橋宏幸司祭が「霊性」について執筆されています。人間の能力に過剰なほど自信を持っている現代社会では、「霊性」が教会のあらゆる奉仕職の根源になる領域であることを特に強調しなければなりません。したがって、このテーマこそこの『奉仕職シリーズ』の第一巻になるべきものだったと言えます。

キリスト者の奉仕職は単なる自主的なボランティアーの働きではありません。ボランティアーとは自分の自由意志を動機とする働きです。キリスト者の奉仕職は神の呼びかけに応答することです。自分では行いたくないと思っていることさえも、聖霊はそれを行うようにとうながすことがあることも聖書を読めばよく分かります。私たちは、聖霊のうながしに応答しないこともできますし、拒否することもできます。聖霊のうながしに応答の決意をさせるのは人間の霊です。神の霊(聖霊)のうながしと人間の霊の応答の相互作用が霊性です。ですからキリスト者の奉仕職は人間の単なる自由意志による決断が動機ではなく、うながしに対する服従の決断が動機になります。

ペトロは十字架の道を行くイエスに対して「主よ、あなたのためなら命を捨てます」と断言します。これは自分の意志での断言でした。この断言を守ることができなかったのは有名な話です。しかし、ペトロはイエスに「サタン、引き下がれ」と言われながら、また何度も失敗しながらイエスのあとを、「主よ、どこに行くのですか」と従って行きました。もはや、自分の意志や決断ではなく、イエスの霊(聖霊)とペトロの霊が相互に呼応していたのです。臆病で軽率なペトロが殉教までイエスに従っていけたのは、ペトロの意志ではなく、聖霊のうながしに応答することのできたペトロの霊性です。

奉仕職に必要なのは、意志以上に霊性です。個人の決断や自由意志を尊重する傾向の強い現代のキリスト者が修得しなければならないものは「霊性」です。教会の奉仕職を強化するためにこの小冊子が読まれ、学習されることを期待します。

日本聖公会東京教区 主教 ヨハネ 竹田 眞

1995年3月末より、約1年間にわたって、フィリピンのケソン市にあるローマ・カトリック教会の修道会の一つ、聖ドミニコ会のフィリピン管区の大修道院で、修道士たちと一緒の生活をする機会を与えて頂き、想像に余る程の大きな、また豊かな実りを与えられましたことを感謝いたします。ここに、今回の研修の第一のテーマである「霊性(スピリチュアリティー)」を巡って自分なりに学ばせて頂きましたことを整理し、また思い浮かべながら、いくつかの点を記させて頂きます。

1. はじめに

今回の修道院での研修に当たり、その契機となりましたことや、目的、動機を記すことから始めたいと思います。

神学校を卒業してちょうど10年目の折、ふと振り返ってみますと、洗礼を受けてから既に四半世紀の時が過ぎる中で、キリスト教(信仰)に対する理解や、自らの在り方は、いろいろと変化をたどってきました。一つには、神学という学問を通して受ける影響があったことが否定できませんが、一方、毎日の生活の中で起こる人や物事との関わりの中で、だんだんとわき起こってくる思いがありました。他の人々からすれば「何を今さら…」と思われるかも知れませんが、改めて「キリスト教信仰の本質とは?」「クリスチャンである(あり続ける)とは?」「聖職者に委託されている役割とは?」そして「霊性とは?」といった事柄に思いをはせると同時に、これらのテーマを絶えず神様に問いかけ続け、また、自らの中でも確認し続けていくことの重大さを、改めて強く思うようになりだしました。

そもそも、キリスト教信仰において、神様の中に生かされている私たち一人一人にとっての最終的、また究極的な目的とは、「神様(イエス・キリスト)に出会うこと」「神様(イエス・キリスト)を見ること」「神様(イエス・キリスト)と一つになること」であると言えます。

そして、現にキリスト教の初期の頃から、多くの人々によって、いろいろな形の運動が展開されてきましたが、その中で人々は、手に取って見ることのできない神様を見、触れようと努めてきました。そのような信仰生活における基本的なテーマや動きの中で、「修道院(修道生活)」というものが作り上げられてきたと理解していました。

このようなテーマを貫いている修道生活とは、単に「清廉潔白な人々」「浮き世離れした人々」「世俗の煩わしさから逃避した人々」のいずれの集まりでもありません。言うなれば、最も純粋な形で「神様に出会おう」「神様を見よう」「イエス・キリストと一つになっていこう」という人々の集まりであり、共同生活であるように考えております。そして、このことは、私たち人間の方からの一方的な希望や思いではなくて、神様の、イエス様の方からの願いでもあると思えてなりません。

いろいろと述べてまいりましたが、今一度簡単にまとめてみますと、

と言い表せ、また、その道程こそがキリスト教信仰の歩みではなかろうかと思えます。今ここに書き記しましたようなことを思いつつ、「修道院の歴史」「修道生活」についての講演を聴く機会が与えられました折にそこから示唆と課題を受け、改めて「信仰」「霊性」といったことを思い巡らし、それについてさらに深めていきたいということが、この度の研修の発端ともなった次第です。

さらにもう一つ、これまた個人的なことになりますが、それを付け加えておきたいと思います。25年程前、洗礼を受けてクリスチャンとなり、後々神学校、伝道師、執事、司祭というプロセスの中、あるいは、毎日の生活の中で、ここに逐一書き記すことはできない程多くの、また、様々な出来事がありました。また、いろいろな人々との触れ合いや出来事を通じて、時の経過とともに、自分自身心底「霊性」が欠けているという感覚、しかし、同時にそれに飢え渇いている実感が徐々に強まってまいりました。

適切な例えになるか分かりませんが、どれほど見た目が立派で、格好も良く、内装や、様々な装備がなされていても、肝心要のエンジンという部分がしっかり、力強いものでなければ、自動車本来の働きをなすことはできません。まさに、「霊性」とは、自動車に例えるなら、エンジンの部分に当たるのではないだろうか。そして、それがしっかりと整えられていなければ、いくら外側がすばらしく見えても、それはより良く走り続けていくには無理があるのではないだろうか。そのようなことを、(これも聖霊の導き・うながしと言ってよいのかも知れませんが)次第に強く感じ始めてまいりました。

「自分には、(エンジンに例えられる)「霊性」が欠けている」。「しかし、恥ずかしながら今やっとそれに気付き始めた」。「同時に、霊性に飢え渇いているという感覚も、日増しに強くなってきている」。「何とか本物の霊性について学び、それをしっかりと身に付けていきたい」。「さらには、これからも、それに(多少変な表現ですが)飢え続けていかれるようでありたい」。これらの心の動きが、おのずと自分を「修道院」「修道生活」へと向かわせていったと言えます。

この紙面には、言葉足らずゆえに十分に書き尽くせていない部分もありますが、前記のようなテーマを基本に据え、目標としている生活、すなわち、修道生活の中に身を置き、実際に体験・経験していくことを通して、改めて自らの生活や働きを顧み、あるいは深め、その拠って立つべき所を、自分自身の中にしっかりと据えることができたらというのが、研修を希望しましたそもそもの理由であると申せます。

2. 希望を見出す所 ―修道院―

スピリチュアリティーを、日本語では普通、「霊性」とか「霊的」と訳すことが一般的ですが、文字が与える印象や、語感には、何となく多くの人々に、ある種の固さを与えるところがあるようにも思えます。そのような理由から、折に触れてお話をさせて頂く時、あえて「スピリチュアリティー」と、英単語をそのまま使って、話をさせて頂いております。この文章の中でも、そのような理由から、あえて「スピリチュアリティー」という英語をそのまま使わせて頂くことを、初めにお断りいたします。

「スピリチュアリティー」(霊性)に関する書物は、日本語・英語を問わず、数多く出版されていますが、その出発点はいつでも、聖書、あるいは、祈祷書であります。さて、冒頭にも簡単に書き記しましたが、1995年の春から約1年間、フィリピンの元首都であったケソン市にある聖ドミニコ大修道院(本院・SANTO DOMINGO CONVENT)で、幸いにも研修をさせて頂く機会が与えられました。

話が横道にそれるようですが、ビング・クロスビーとイングリッド・バーグマン主演の古い映画で「セント・メリーの鐘」という作品がありました。その中で、イングリッド・バーグマン扮する修道院長(霊母)の台詞に次のようなものがありました。「修道院(修道生活)というのは、この世からの逃避の場所ではない!修道院(修道生活)というのは、希望を見出す所です」。これは、単に映画の中での台詞という以上に、私自身にとっても大きな示唆を与えてくれるものでした。

一口に「修道院」(修道会)と言っても、様々なタイプがあります。多くの日本の方々もそうであるかも知れませんが、私自身小さい頃からずっと、修道院、あるいは、修道生活というものは、この世から離れて、心静かに、ただただお祈りに専念するというだけにしか思っていませんでした。そして、それは非常に消極的とも言える、この世からはるかにかけ離れたところにある、私たち世俗に住む者たちとは大きな隔たりを持っている所であり、また、そういう生活であるという先入観を、長い間ずっと持ち続けていました。

しかし、実際にそこで生活をし、修道士たちとの交わりを持ちますと、とてもそのような言葉では言い尽くせないほどに、深く、広く、そして大きなものがあることを、いやおうなく感じさせられます。前述の、「消極的」「この世からはるかにかけ離れた」というイメージは、次第次第に崩されてまいりました。

さて、少しずつ話をフィリピンでのことに進めていきたいと思います。

日本を発ってから、先方の最終的な受け入れが伝えられるまでしばらくの間、聖公会の大学であるトリニティー・カレッジで英会話の訓練をしながら過ごしました。そんな矢先、私が何よりも大嫌いなネズミが出、さらには、修道院に移ってから間もない頃、再びそこでも同じ事件が起こり、私にとっては極めて悲惨な(?)状態からのフィリピンでの生活が始まりました。そんな矢先、ある衝撃的なというのか、力を注ぎ込まれた出来事が起こりました。

それは、真夜中の1時か、2時頃だったと思います。気候の影響もあり、寝苦しい最中のことでした。日本を離れる時には、威勢良くと言いましょうか、張り切って出かけたものの、いざ来てしまうと、「考えが甘かったかな?」「もっと短期間にしておけば良かったかな?」「こんな(?)所に、しかも他教派になど来てしまって…」「日本語が、全く使えないなんて…」等々、重苦しい気分と不安とに押し潰されるのではと思い始め、次第次第に苦しくなってきました。「やはり駄目かも知れない」「自分にはとてもではないが、ここでの生活は無理かも知れない」「勢い込み過ぎたのではないだろうか?」、そんな考えばかりが心を占め始め、それこそ不安と恐怖と迷いとで、脂汗がにじみ出、思わず体がふるえ出すほどの緊張感が、胸の内に広がり始めていったのでした。正直なところ、恥も外聞もなく、「心身共に異常を来す前に、いっそ帰ってしまったほうが…」とまで、深刻に考え始めました。「荷物だって大した数はないし、まだ全部開け切った訳でもないし…」と、正直なところそんなことばかりが、頭の中を駆け巡っていました。

そして、「あと数時間の我慢だ。そうすれば明るくなるし、空港も開くし。とにかく、今晩だけ、あと数時間…」等と、今にして思えば、恥ずかしくなるようなことを、真剣に考えていたのでした。その直後でした。「夢だったのかな?」と一度は思いつつも、そうではありませんでした。ふと耳元で、ある声が聞こえたのです。「私が一緒にいる!」「私のところへ来なさい!」と。以後、先ほどまでの脂汗が、まるで嘘のようにスッと引いていき、後は得も言えぬような安らぎが、心の中に広がってきました。同時に、「頑張れる!」「やり抜く!」という、つい先ほどまでとはまるで別人のように、強い気持ちに満たされ始めていきました。しばらくの期間、「やはり、あれは夢だったのだろうか?」「幻だったのだろうか?」と疑ったこともありました。しかし、一つだけはっきりと言えることは、「あれは、起きている時に、確かに、はっきりと語りかけられた声であった!」ということです。

そのことを期に、1年にわたっての、修道院での本格的な生活が始まったのでした。

3.「ギブ・アップ」の祈り

修道院に移ってから、最初に連れていって頂いたのは、「誓願式」(終生誓願の一つ前の誓願式)でした。本院から車で3時間あまり行った所にあるマナアックの修道院(分院)でした。ここは、日本で言えば中学3年か高校1年の年頃の少年たちが、将来の修道士・司祭を目指して訓練を受ける所ですが、幸いにもそこでの最初の誓願式に同行させて頂きました。

式の後、一人の修道士(修錬士長)が院内を案内してくださった際に説明して頂いた、心引かれる9枚のレリーフがありました。それは、ドミニコ修道会の創設者である聖ドミニコが伝えた、9通りの「祈りの姿勢(ポーズ)」―ひざまずく、立つ、顔を天に向ける等々―の祈りのポーズが、美しいレリーフになっているものでした。この9通りの、ドミニコが伝えた祈りの姿勢は、後々リトリート(静想会)の際に、あるシスターから実際に教えて頂きましたが、あたかも太極拳かヨガでもしているかのような印象を持ちました。

実はその中に、なぜか私自身の目を引いた一つのポーズがありました。それは、両手を十字架のように広げているものでした。それを見た瞬間、私の脳裏に浮かんだ言葉は、「ギブ・アップ」(GIVE UP・お手上げ)でした。どうしてもそれが気にかかったので、帰るや否やさっそく英和辞典で「ギブ・アップ」を引いてみました。単に「ギブ・アップ」であれば、「降参」「参った」「諦め」といった意味が並んでいますが、さらにこの言葉を分解して「ギブ」(GIVE)と「アップ」(UP)を引いてみると、非常に興味深いものに突き当たりました。

「ギブ」には、「授ける」「伝える」「寄せる」「引き渡す」「期す」「捧げる」「応ずる」等といった意味があり、また、「アップ」には、「上」「近付く」「勢いよく」「結び付く」「残らず」「全部」等という、実に豊富な意味がありました。そして、さらなることには、たまたまその夜読んだ聖書(詩編)の箇所が、143編6節でした。そこに書かれている言葉は、「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂をあなたに向けます」というものでした。偶然と言ってしまえばそれまでですが、あたかも雷にでも撃たれたかのような、「まさにこれだ!」といった思いでした。ドミニコが後世に残された祈りの姿勢の一つが、当初私自身の目には、単に「お手上げ」としか映りませんでしたが、実はドミニコが大切にし続けた「祈り」とは、「神様に全てを捧げる」「神様にありのままを捧げる」「差し出す」「さらけ出す」とも言えるような、非常に深遠な「霊性」に端を発しているということを改めて思い知らされるところから、1年にわたる修道院での生活が始まりました。

4.「自らの責任」という厳しさの中で

冒頭に既に書き記しましたが、キリスト教信仰の究極のテーマ、最終的なゴールとは、「神様を見る」「イエス様(キリスト)を見る」という言葉に尽きると言えましょう。それをどのようにして見るか、あるいは目で見るか、心で見るか、体を使って見るかなど、いろいろな見方があるかも知れませんが、とにかく「神様を見る」「イエス様(キリスト)を見る」ということでありましょう。そして、それはパウロが繰り返し繰り返し、しつこいほどに言っていることでもあります。

それでは、どうしたら神様を見ることになるのか、イエス様を見ることになるのか、どういうことをもってそういうことが言えてくるようになるのか。修道生活というものは、まさにこのことを常に追い求めていく生活であります。いかにして神様を見、イエス様を見、そして、キリストと一つになっていかれるかということを究極のテーマとして追い求めていく生活、それが修道生活であると言えます。したがって、この世からの逃避ではありません。

そして、このテーマを追い求めていく上で、いろいろなことが起こります。ある人は、貧しい人々、死に行く人々の中にキリストを見る。ある人は、教育という働きを通して、子どもたち、若い人たちの中にキリストを見る、そして、それらの人々に仕えていく。あるいは、説教や学問を通してキリストに触れていく動き。こういったことがなされます。

ところで、よく「修道生活の中で、何が一番厳しいですか?」と尋ねたこともありましたし、帰国してから、私自身尋ねられたこともありました。「朝早くて大変でしょう」とか、「お祈りの時間が一日に何回もあって大変でしょう」という質問を、たびたびされました。確かに、最初のうちは朝4時半に起きることは、大変でもありました。しかし、そのようなものは毎日の生活のリズムとして慣れてしまえば、さほど大きな問題や困難ではありません。

むしろ、修道生活の中で最も厳しいことの一つに数えられることは、「全ての事柄を自らの責任において」ということでありましょう。「これは、私の責任においてなすこと」「これは、あなたの責任においてなすこと」「これは、私たちの責任においてなすこと」―「責任」という言葉を、「神様との約束」という言葉に置き換えることもできるでしょうが―であり、その辺りのけじめや区別が、極めて厳しい形で保たれていました。ただし、誤解を避けるために一言付け加えるなら、「これは、私の責任においてなすことであるから、一切他人には手を出させない」とか、「これは誰々の責任においてなすことであるから、自分は一切手伝わない」ということではもちろんありません。

そのようなことを目の当りにさせられて、改めて考えてみますと、厳格な規則一点張りの「律法主義」的なほうが、うるさく、厳しく、煩わしく思えるようで、その実「ああしなさい」「こうしなさい」「こうしてはいけない」「ああしてはいけない」云々を逐一指図してくれるということで、むしろ楽なのではないだろうかとさえ思わされます。それは、「決疑論」というものに通じるのでしょうが、あらゆることを律法が決めてくれ、その決められた通りに動けば良いために、自らの責任と決断に基づいて動きをとっていくよりは、はるかに楽でありましょう。

そんなことを思いながら、かつて八代斌助主教が書かれた本の中の一節を思い浮かべました。「思うに、キリスト教国と、キリスト教国でない国民の一番大きな違いは、自分のためにすべき分をわきまえ得るか、わきまえ得ないかによってしばしば現わされる。キリスト教国の人たちは、『これは自分のなすべき分』『これはあなたのなすべき分』「これは私たちのなすべき分』といったことを、きちんとわきまえる教育を受けている」。

この言葉を借りて申し上げるなら、「これは私の責任においてなすべきことです」「これはあなたの責任においてなすべきことです」「これは私たちの責任においてなすべきことです」というけじめや区別が、修道院の中では保たれていました。

5.「スピリチュアリティー」(霊性)とは?

ある日、若い人たち(終生誓願を志している人たち)の訓練・教育を担当しておられる修道士に、次のように尋ねたことがありました。

「スピリチュアリティー(霊性)について、どのように思いますか。スピリチュアリティー(霊性)の中身とは、どのようなものだと思われますか?」と。「ちなみに、日本では一般的には、きちんと礼拝に出席し、聖餐にあずかり、聖書を熱心に読み、朝に夕に、あるいは、寝る前にと、熱心にお祈りをすることや、そういう人のことを指して、霊的であるとか、霊的な人という言い方をよくされているが…」とも加えてみました。すると、それに対する答えは、次のようなものでした。「確かに、熱心に、しかも継続的に聖書を読むとか、礼拝・黙想をする、祈りを絶やさないことはとても大事なことではある。しかし、それらはむしろルーティンワーク(日常の仕事・決まり切った仕事)と言うべきであって、スピリチュアリティー(霊性)を支えるものでこそあれ、スピリチュアリティー(霊性)そのものとは言い難いように思う」。

すなわち、右に記した信仰の業は、クリスチャンとして在り続けようとする限り当然なすべきことと言えますが、このような答えを聞いた私自身、正直なところ驚くと同時に、いささか大げさな言い方をするなら、まるでハンマーでガツンと殴られたかのような印象すら受けました。では、キリスト教信仰において、常に大切にされ続け、また、力となっているスピリチュアリティー(霊性)、その中身とは一体何なのだろうか。それは自分自身で生活を通してつかみ取るしかないのでしょうが、管区長と副修道院長のお二人は、私に向かって、「とにかく、この一年の修道院での生活の中で、自分なりにしっかりしたものを見つけ、つかみ取って、そして日本に帰りなさい」という勧めと励ましを与えてくださいました。

自室に戻ってから、英語やラテン語の辞書を引いてみたり、改めて何冊かの本にも当たってみました。「スピリチュアリティー」を日本語に訳せば、「霊魂」「魂」といった言葉との関連で、言葉としてはおぼろ気ながら分かりはするものの、もっと深い中身は、正直なところそう簡単には、なかなか見えては来ませんでした。

ラテン語においても、「スピリトゥス」という語には、「呼吸」「熱望」「勇気」「尽力する」「競合する」等々の意味がありますが、言葉としては何となく小さなヒントのそのまたヒントらしきものは手にしたような気はしましたが、未だ決して十分とは言えないまま、しばらくの時間を過ごさざるを得ませんでした。

そんな矢先、偶然、かつ幸いにも、聖トマス大学での「Theology of Christian Spirituality」(霊性神学)の授業の中で次のような話を伺う機会がありました。

「『SISTER ACT』(日本での題名は『天使にラブソングを』)という修道院を舞台にした映画があるが、その主題歌の冒頭に「I will follow Him !」(私は、彼(キリスト)に従って行く)という歌詞がある。そもそも「キリストに従う」という言葉遣いは、教会では古くからなされ続けているが、問題は、その従い方であり、そこにスピリチュアリティー(霊性)の核心に触れる大事な意味合いがある」といったものでした。

6.「I will follow Him !」

私たち日本人の感覚的なものかも知れませんが、あたかもイエス様を師に見立てて「三尺下がって師の陰を踏まず」式の物の考え方があるように思います。一尺が約33センチですから、掛ける3で99センチ下がって、師、すなわちマスターの陰を踏まずというのを、私の英語力ではとても正確に伝えることはできませんでした。とにかく、「謙遜」「尊敬」「敬意」を表わす、日本人に古くからある慣用的な表現だということを伝えましたところ、「マスターの後ろ姿を仰ぎ見ながらついて行くということは、何となくイメージできるし、言葉としても何となく分かるような気はする。しかし、実際的には良く分からない」という答えが戻ってきました。むしろ、「I will follow Him !」というのは、イエス様がいらして、その後ろ姿を仰ぎ見ながらついて行くという、言うなれば「控え目な従い方」「控え目な信仰」ではなくて、「side by side」というような、横に並んでガッチリ腕を組んで歩んで行く。イエス様と結託して、ガッチリと腕を組み、決してその手を離さないような従い方、それこそが「スピリチュアリティー」(霊性)の中身を解く大事なヒントなのであるということを教えてくださいました。

しかし、振り返ってみますと、私自身「恐れ多くてもったいないから、せめてイエス様の後ろ姿でも仰ぎ見て…」という感覚を、長らく持っておりました。しかし、「side by side」「イエス様に、これでもか、これでもかという位に食らいついて行く」という「意気込み」「心意気」「根性」、あるいは、そういう形でイエス様と一緒に道を極めていくという意味で、大変妙な日本語を使いますが、「極道精神」とでもいうべき私たちの姿勢とか動き、心のありようを指して、スピリチュアリティー(霊性)ということが言えてくるのではないか、ということを大変強く感じました。

私たちの教区主教でいらっしゃる竹田主教が、かつて聖公会神学院の校長だった時、神学教育の会合での席上で次のような発言をなさったということを伺いました。「霊性という言葉を、自分は『根性』と訳した」と。ところが、その後、「spirituality」という言葉をいくら辞書で引いてみても、「根性」という訳などありません。しかし、なぜ竹田校長先生は、そのように訳されたのだろうかという疑問が、以来十何年も私の心の中に残っていて仕方がありませんでした。「霊性」という言葉は、もっと「静か」で、「荘厳」で、という意味合いのはずなのに、よりによって「根性」などという、スポーツの世界に結び付くようなことをおっしゃったのだろうか。実は、こう言うことによって、「イエス様に食らいついていく頑固さ」のようなことを言おうとされたのではと思い始めました。

そのようなことを思いながら、1回が1週間から10日にわたるリトリート(静想会)に参加させてさせて頂いたり、低所得者居住区(いわゆるスラム)、病院、学校、職業訓練施設などへ連れていって頂いたりという中で、豊かな実りにもあずかりました。しかしながら、そういう状況・環境の中で、現に人間が生きている、そして、そういう状況・環境の中で働いている修道士たちの姿を見ていますと、何となく修道士やシスターたちの中でイエス様が一緒に働いておられるという、ちょっと理屈では上手く説明できないような思いを、心の中に強く感じました。確かに、2000年前とは状況も、国も場所も違うけれども、同じような雰囲気が醸し出されていたのではないだろうかと思わされました。同時に、矛盾するような言い方になるかも知れませんが、修道士たちが仕えている人々は、修道士たちの内に豊かに与えられている様々なもの、スピリチュアリティー(霊性)を引き出し、受け取っておられるキリストであられるのでは、そんなことも痛感させられ、また、しばしば目の当りにさせられました。そしてまた、スピリチュアリティー(霊性)というのは、何かイエス様をほうふつとさせるようなものなのではないかとも、ふと思わされました。

そのようなスピリチュアリティー(霊性)に支えられながら、毎日の働きに力を尽くしている修道士たちの一人から、こんな話を伺ったことがありました。

「もし自分が信仰というものを与えられず(持たず)に、つまりはクリスチャン、ましてや修道士でも聖職者でもなかったなら、この世的には、多分もっともっと楽で、楽しい生活をできたに違いない。しかし、今よりも、もっともっと恐れなければならないこともたくさんあったと思う。というのは、物事の基準や基盤というものがはっきりしないから、移ろいやすい。これが流行ればこっち、あれが人気があればあっちというように、フラフラ、フラフラとしていたに違いない。そしてさらには、神様よりも人の顔色に絶えず気を取られて、どっち付かずに暮らしていたかも知れない。でも、今自分には、神様やイエス様の言葉やご生涯という確固たる基準や指針といったものが実際にある。従って、そういうものが示されているから、こうして明るく生きていられるように思うのだ。」

あるいは、どうしても気になっていたことを尋ねた時、こういう話をしてくださった方もありました。「修道士と言えども、生きるためには、着るものもお金も実際には要るのだ。しかし、自分たちは、お金をはじめとして、物に縛られるということだけはないと思う。なぜならば、一つには、死ぬ時には全部置いていくのだから。最後の最後まで、自分がグッと握り締めて、誰にも渡すまいとして抱え込んでいかれるものは、皆無に等しい。だから、かえって気楽なのだ。今持っているものは、預かっていて、それを使っていると思うから、失ったらどうしようとかいう心配はほとんどないのだ。けれど、もし人が、心の中に多くの恐れや不安を感じるとすれば、それは大抵不必要なものを多く持ち過ぎているからなのではないだろうか。なくても良いようなものを、多く持ち過ぎた時に起こってくる不安というものがあるのではないだろうか。自分たちのように修道院にいると、かえって持っていないことによって、魂の健やかさを持てるような気がする。」

あるいはまた、「いつでも、魂や信仰のことを第一位において、ずっと考え続けたり、黙想したり、観想できる生活というのは、ある意味でとても贅沢で、恵まれた生活だと感謝している」という気持ちを伝えてくださった方もおりました。今にして思えば、1年という大変短い期間でしたが、いくつもの実りを頂いて、今度は日本の教会、日本人クリスチャンである自分自身の信仰生活を振り返った時に、思ったこと、感じたことを次に述べてみたいと思います。

7. ユーモア

先ほど、「スピリチュアリティー(霊性)とは、神様・イエス様に、これでもかという位に食らいついていく心意気・意気込み・根性」というような言い方をしましたが、しかし、その「意気込み」「根性」「心意気」ということを、違った意味で強めていきますと、人間どうしても肩に力が入り過ぎてきて、顔はこわばり、眉は吊り上がり、眉間にはしわが寄り、険しい顔付きになってくるものです。そういう力の入れ方、意気込みになってしまっては、やはり上手くないと思います。おそらくそこでは、「バランス」というものが失われることにもなってくるでしょう。

そして、「日本人クリスチャン」という言葉でくくってしまって良いものかどうかとも思いますが、一つには、ゆとりとリラックスの源ともなる「ユーモア」が、非常に欠けているような気がします。もちろん、「ユーモア」とは、くだらないジョークやばかげたお笑いとは違います。そうではなくて、心を和ませるものであるはずです。よく「日本人はユーモアが下手である」と言われることがありますが、信仰を豊かなものにしていくには、どうもユーモアのセンスも必要なのではないかという気がします。

例えば、イエス様が「金持ちが天国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうが易しい」ということをおっしゃいましたが、「ラクダが針の穴を通る」などという言い方は、一つのユーモア、ユーモラスな物の言い方と言えるように思えます。そして、このイエス様の言葉を聴いた当時の人たちにしても、歯を食いしばって、肩に力を入れて聴いたというよりも、むしろ、たいへん微笑ましく聴いていたのではないかと想像します。私たちがユーモアのセンスを身につけるということは、多分イエス様の声をより良く、豊かに、深く聴いていくための、一つの作用になっていくのではと思えます。

何人かの修道士たちにいろいろな場所へ連れて行って頂いて、その働きを見せて頂いたり、一緒にさせて頂く中で、イエス様の姿をほうふつとさせられるということを先ほど言いましたが、その時に「霊的な生き方」「霊性が豊かになる」ということは、神様の輝きを映し出すステンドグラスのようになることであり、光そのものになるというよりも、神様の光を注がれ、それを見ている者、光に浴している者に、美しさとか、ゆとりと安らぎを与えるステンドグラスのようになっていくことが、「スピリチュアリティー(霊性)が高まっていく」ことなのでは、という課題のようなものを与えられました。

そして、日本に帰って来てからもいろいろなことを考えさせられますが、大きく2つ、3つのことを申し上げたいと思います。

8. インカルチュレーション ― Inculturation ―

「果たしてこれが、スピリチュアリティー(霊性)に関係などあるのか?」と思われる方々もいらっしゃるかも知れませんが、他の教派のことはともかく、私たちのことを省みました時に、まだまだ遅れているというか、努力を必要としているものの一つに、こういうことがあるのではないかと思います。

日本で福音を宣教するとか、日本で私たちがずっと信仰生活を続けていく、スピリチュアリティー(霊性)を高めていくという時、やはり落としてはならないことの一つは、「日本文化の研究」ではないでしょうか。ただし、「文化」と一口に言っても、伝統・様式・言語・習慣・メンタリティー等多岐に及んでいますが、教会、あるいは神学校、修道院では、もっともっとその研究や学びを深め、どのようにイエス様の福音をより分かりやすく日本人に伝えていくか、そして、何よりも、自分自身の内にしっかりと植え付け、実らせていくか、その研究は必要不可欠ではないかと考えます。

よく渋谷や銀座、新宿などの繁華街で、スピーカーと看板を担ぎ、「あなたがたは罪人です」とやっているのを目にします。確かに、言っていること自体は、聖書の言葉そのものですが、いきなり誰彼問わずにそう言われた時、はたして何人の日本人が「そうだ、本当にそうだ!」とスムーズに理解、あるいは納得するだろうかと考えますと、まず難しいと思わざるを得ません。見も知らずの人に、いきなり「あなたは罪人です!」などと言われたら、大抵の人は頭に来るか、「余計なことを…」とでも思う方が、むしろ普通でありましょう。

そもそも、一つには、日本人の文化の中で生き、日本語という言語を使って生活している私たちにとって、その言葉の意味すること、その言葉が持つ特別な中身を丁寧に伝えることなくして、あのような物の言い方や言葉遣いが、そのままスッと心に入り込んでくるかというと、やはりどこか無理と言いますか、大きな壁のようなものがあるように思えてなりません。

思いますに、日本におけるキリスト教は、良い意味でも、そうでない意味でも、まだまだ欧米の影響を乗り越えられないところにあるような気がします。遠藤周作という方が、生前たびたびこういうことを仰っていました。「自分の体に全然寸法が合わない着物を着させられて、窮屈で、何となく気持ちが悪い」と。それを一つのヒントにしますと、悪い意味では欧米の受け売り、とにもかくにも「有り難い、有り難や…」というところから、もう一歩、二歩と発展していくのが難しい、というのが、ある部分正直なところかも知れません。しかし、日本人には欧米人と似ている部分もあれば、彼らとは異なった部分、また日本や日本人の持っている、あるいは、与えられているすばらしいものもたくさんあるにもかかわらず、そのあたりのことを「文化」という面から十二分に研究したり、洞察を深めてきたかというと、まだまだ大きな課題が山積みにされているのではないだろうかと、改めて日本の外側から見つめ返してみた時、そのように思えた次第です。

そのことから言えば、「礼拝」一つ取ってみても、非常に大事な問題に突き当たるはずですし、あるいは、聖書を読む(聖書に聴く)時にも、時には私たちに大きな誤解を生じさせてしまうようなこともあるかも知れません。

これはその一つの例になるかも知れませんが、私自身子どもの頃、たびたび「捨てる」「捨てなければならない」という言葉を聞かされ続けてきました。洗礼準備や堅信準備などの折りに、「クリスチャンになるためには、何かを捨てなければならない!」という言葉遣いをもって、いろいろなお話を伺い続けてきました。確かに、結果的に何かを「捨てる」ということにもなるのでしょうが、しかし、その前にもう一つ言うべき大事なことがあったのではないだろうかと思えます。否、むしろ、思えるというよりも、確信に近いものを持てるようになりました。修道院での生活も、そのことへの大きな影響を与えてくれたものですが、それは「選び取る」(「何かを選び取る」「どちらかを選び取る」)ということです。

イエス様が公生涯に入られる時、つまり、ヨルダン川で施洗者ヨハネから洗礼を受けられた時、あるいはもっとさかのぼって、聖母マリアがイエス様を生み出すあたりの動きの中で、あるいはまた、イエス様のゲッセマネでのお祈りの時、十字架の上、そのようないくつかの、それも非常に大事な出来事の際に、「はい、神様、私は何かを捨てます」「天使ガブリエルよ、私は何かを捨てます」というような受け答えは、見受けられないように思えます。そうではなくて、「神様、私は(これを・この道を・この働きや役割を)選び取ります!」という、極めて積極的な姿勢が貫かれています。そして結果として、人目には何かを捨てたように見えることがたくさんあります。

私たちも同じように、「クリスチャンとして生きる道を選び取る(選び取り続ける)」ということを、神様との応答の中でし続けます。その一方で、確かに日本人は控え目なところがありますから、「積極的に選び取る」というよりも、「捨てる」、あるいは、時には「諦める」という方が性に合っているとも言えるかも知れませんが、やはり信仰の核となるようなことに関しては、はっきりとした、積極的な言葉を使った方が良いのではないかと思います。今、「文化」との関わりでお話を進めていますが、信仰、少なくともキリスト教の信仰生活においては、「選び取る」という姿勢は、極めて重要なポイントとなっています。それをもしも、いきなり「捨てる」と訳してしまえば、自ずとその言葉の上には、「嫌々」「無理して」「歯を食いしばって」という言葉が乗りやすくなり、スピリチュアリティー(霊性)を育むのとは反対の方へ向かいがちになる危険もありましょう。

ただし、聖書には実際に「捨てる」という言葉がたびたび出てきます。だからと言って、短絡的に、「捨てる」と翻訳されている箇所を、全て「選ぶ」とか「選び取る」と今すぐに訳し直すべきである、ということが言いたいのではありません。むしろ、そのように訳される言葉の中に秘められている、福音やスピリチュアリティー(霊性)に直結するような意味をきちんと押さえ、私たちの中に植え付けていかれるように、そして、それを基にしながら行動を起こしていかれるように、あるいはまた、そのことに自分自身を深く、より良くコミットさせていかれるようにと、そのためにこのようなことを記した次第です。

あるいは、「憐れむ」という言葉も、イエス様が憐れみの業をなされるのは、必ずと言ってよいほど人の苦しみや悲しみを見て取られた時、日本語で言う「断腸の思い」―「自分の胃がキリキリと痛まずにはいられない」といった意味合いと言いましょうか―を持たれた時であり、そこにはイエス様の生き方そのものがあります。

そのように考えてみますと、聖書の本来の意味、イエス様の心の奥底にあるものを、日本語という一つの大切な文化の中でどう訳しどう伝えていくか、いかに自分自身の中に根付かせていくか、といったことを考え、研究し、整えていくためにも、文化を学ぶことが必要であると改めて思います。それは―申し上げるまでもないことですが―、私たち日本人が好むようにと、大切なものをいたずらにすり替えたり歪曲していく作業では、もちろんありません。むしろ、いかにして、より正確に神様のみ心を、イエス様のみ心を、私たちの中に根付かせ、開花させていくかへの学びであり、研究であると思います。

9. 異なった「文化」の中でも働かれる神様

私たちが大切に守り続けている「教会暦」は、イエス様の身の上に起こった、たいへん重要な2つの出来事、すなわち、ご降誕とご復活を中心にして、そのご生涯をたどるように組み立てられています。その中に「大斎節」というご復活前の期節があります。

大斎節と言えば、ごく自然に「克己」「節制」「禁欲」「我慢」等という言葉が頭に浮かんできます。あるいは「修道生活」から連想して、「禁欲生活」、つまり「欲を禁ずる」ということを思い浮かべる方々もおられるかも知れません。もちろん、ここに羅列した言葉や、それに基づいたあり方も大事であることに変わりはありませんが、その方向性や目的を誤って、ただただやみくもに、我慢し耐え忍ぶ方にのみ突き進んでしまうとするなら、それにはやはり限界もあることでしょう。

ところで、「克己」「節制」「禁欲」「我慢」等というものを軽視している訳ではありませんが、一方で、聖書や教会の伝統的な教えの中では、果たしてそのようなことを言っているのだろうか?という疑問も、実は私自身の中にありました。しかし、これらの言葉もまた翻訳の一つに数えられますから、念のために基になっている言葉に触れておきますと、「禁欲」の基になっているのは、英語では「exercise」(エクセサイズ)という言葉でした。「エクセサイズ」は「運動」と訳すことが多々ありますが、さらに英語の基になっているラテン語では、「外へ追い出す」「働くために外へ出す」、あるいは「体を動かす」「訓練に励む」という意味の言葉のようです。「忍耐」という言葉も、「グッと歯を食いしばって耐える」という感じよりも、「あるものの基にとどまる」「そこにしっかりと身を置く」というのが元々の意味のようで、「どこに」とか「誰の基に」については、今さらくどくどと書き記す必要はないように思います。

ここでは、文化の一要素である言語・言葉について主に書いていますが、その大事な文化である言葉を、もしも誤って使ってしまったり、安直に使ってしまったりということが起こるとすれば、それはそのまま私たちの信仰やスピリチュアリティー(霊性)、その形成、成長にも影響してくるに違いないと言えましょう。もし仮にイエス様がここにスッと現れて、いくつかの訳語をご覧になるか、お聞きになられたなら、「ちょっとそれは?」と言って、首を傾げられるものもずいぶんあるのではという気もします。それだからこそ、広い範囲にわたっての文化の研究、学びは、教会とその信仰にとっても大きな課題となり続けていくのではないでしょうか。

これはある意味で、私自身の想像の域を出るものではありませんが、イエス様ならば、各々の文化やそれに含まれる様々なものを認められた上で、さらに育んでいくべきものは育み、改めていかなければならないものは改められ、省みるべきものは省みられた上で、また時には、イエス様の教え・福音と真っ向から衝突するものを乗り越えていかれる中で、私たち日本人にも良く分かるような、あるいは心の中にスッと入り込み、染み渡ってくるような、そういう働きかけをなさるのではないでしょうか。神様は、イエス様は、私たちには日本語で福音やうながしを語りかけ続けられることでしょうし、日本という土地や文化の中でも働かれるに違いありません。そしてその中には、変えてはならないもの、変えていかなければならないものという両者があるでしょう。しかし、多少乱暴な言い方をするなら、欧米の福音の表現をそのままありがたく頂戴してきた時代には、そろそろ一つの区切りをつけて、改めて私たちの文化をきちんとふまえた上での福音の聴き返し、捉え返しのようなことをしていく時ではないだろうかと思えます。

10. 日常生活の中での「スピリチュアリティー」(霊性)

さらにもう一つは、日本の教会へのチャレンジとも言えることですが、それは「霊的成長」「スピリチュアリティー(霊性)を高めていく」ことに通じていくテーマであり、それが今再び与えられているように思えます。

それは、信仰とは知識や認識の問題ではなくて、あくまでも「私(たち)の歩み方」の問題であるということです。しかも、その歩み方とは、「いかに立派で、崇高な人になるか?」を第一のテーマとしたものではなくて、神様に造られ、目に見える、あるいは見えない、様々な賜物や恵みを頂いているにも関わらず、なかなか十分にはそれに応えていない自分自身というものを、まずはしっかりと、謙虚に見つめる。そして、そのような欠点や弱点をも込みで、私(たち)を受け容れてくださり、そういう私(たち)の中で働き続けてくださる神様に感謝をしたり、賛美をしたり、懺悔をしたりという動きを取りながら、神様の愛を精一杯受け止めていこう、そして、それに対して応えていこう、自分の方からも何かを捧げていこうとする。こういう歩み方こそが「信仰」、少なくとも「キリスト教の信仰の歩み」ということであり、それこそが「スピリチュアリティー(霊性)」であり、その成長であると言えるように思えてなりません。

適切な例になるかどうか分かりませんが、例えば車を運転する人はゆったりした姿勢をとり、ゆったりした気持ちでハンドルを握っている時には、自然と良い運転ができるのと同じように、信仰とかスピリチュアリティー(霊性)というものを考えたり、深めていく際にも、あまりに固くコチコチになって、ゆとりとかユーモアがすっかり欠け落ちた状態でやっていこうとすると、せっかく神様からその時その時に注ぎ込まれているものに対して、極めて鈍感になっていく危険があるようです。良くない意味で、自分をガッチリとガードしてしまいますから、それが大きな、固い壁のようになってしまうこともあるでしょう。固い煉瓦は水を吸い込みませんけれども、柔らかいスポンジは水を吸い込みます。そこで、スピリチュアリティー(霊性)とか、その成長とは、神様に注ぎ込まれているものに敏感になっていくことであるとも言えます。そして、さらにそれは、神様と私(たち)との共同作業でもあるはずです。もろもろの賜物や恵みを注ぎ込む側と、注ぎ込まれる側との共同作業ですけれども、もし仮に、こちら側がそういう動きを止めてしまうなら、その時、その瞬間、日本語での駄洒落のような言い方になりますが、「霊性」は「零性」「冷性」となってしまう危険性を大いに孕んでいると言えましょう。

では、「スピリチュアリティー(霊性)を高める具体的なやり方があるのだろうか?」という問いも、当然起こってくると思われます。その一つに、「霊操」(spiritual exercise)というものがあります。これは毎日の積み重ねが必要ですので、「ちょっと試しに…」という訳にはまいりませんが、一つ、「このような感じ」ということだけは申し上げられるかも知れません。

例えば、ご復活前の1週間を「聖週」とか「受難週」と言いますが、その中でなされた「最後の晩餐」を、一つ例に取り上げるとすれば、次のように言えるかも知れません。

もちろん、私たちに与えられている想像力もふんだんに用いなければなりませんが、「最後の晩餐」の食卓に、自分自身も参加しているとして、そこには、どのような顔ぶれが、どのように位置し、どのような食べ物が並べられ、どのような雰囲気を醸し出しているか。料理は温かいか、冷めているか。自分はどこに座っているか。イエス様の近くか、真正面か、イエス様からは見難い所か。弟子たちは、どのような面持ちで、イエス様と一緒に、最後の食事をしているだろうか。イエス様は、弟子たちに、どのような口調で語られ、どのような眼差しを向けていらしただろうか。そのようなことを臨場感を加えながら、(もちろん、福音書を根底に置きながらということが大切ですが)、想像してみる。それを積み上げたり、繰り返していく中で、少しずつイエス様と相対していくような心の動きとなり、「イエス様と一緒に!」という気持ちが、徐々に高められていくようになります。そして、そういう心の変化と言いますか、イエス様への思いが、さらには、いろいろな形での具体的な奉仕の働きや活動へと繋がり始めていくというようなことです。

あるいは、別の適当な箇所を挙げれば、十字架に先立ってなされた、総督ピラトの官邸での裁判の場面なども良いかも知れません。イエス様が裁かれていらした時、自分は一体どこにいただろうか。ピラトは、どのような面持ちをしていただろうか。どんな口調で、話をしていただろうか。自分がイエス様を見捨てたり、裏切ってしまったと痛感した後、どういう行動をとっただろうか。何か言っただろうか。言ったとすれば、何を、どのように言ったであろうか。

このようなことを心に思い描きつつ、まずは善し悪しの判断や評価を抜きにして、自分自身やその心の内に、今置かれている状況や環境の中で起こってきたことを見つめていきます。

ただし、難しいことではありますが、このようなことの中で常に置き去りにしてはならないことがあります。あえて申し上げるまでもないかも知れませんが、それは「神様の視点(視線)」「イエス様の視点(視線)」です。従って、「私はこう考える」「私はこう思う」「私はこんなふうに想像した」ということだけに終始してしまうと、それはかえって大きな落とし穴にもなりかねません。

そして、当然これだけをもって、私たちのスピリチュアリティー(霊性)が間違いなく最高潮に達するという訳ではもちろんありませんが、その大きな一助となっていくには違いありません。

ここで、「霊操」についての数節を書き記しておきたいと思います。

「霊操とは、良心の糾明・黙想・観想・気付き・口祷と念祷のあらゆる方法を意味する。また、他の霊的修業も意味する。散歩したり歩いたり走ったりするのを体操と言うが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操と言うのである。その目的は、まず、乱れたあらゆる秩序のない愛着を棄てることであり、自分の生活を整えることについて神のみ旨を探し、確かめることである」

「霊操によって、聖霊の動きにもっと心を開き、敏感になることができる。また、心の中にある様々な悪への傾きや、罪の暗闇に光をあてるためのものでもある。さらにまた、神の愛にいっそう忠実に応えられるよう、力づけ支えられるためのものである」

「霊操はいつも、祈りである。霊操に入る人にとって、開かれた惜しみない心が特に大切である」

(以上、イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」より抜粋)

他方、今度は正反対に、私(たち)のスピリチュアリティー(霊性)を妨げていく、あるいは、衰えさせたり、萎えさせたりしていく動きも、一方にあることも加えておきたいと思います。

「極端な」という言葉をその上に付け加えて申し上げたほうが良いかとも思いますが、「(極端な)自己満足」「(極端な)自己陶酔」「(極端な)自己卑下」「(極端な)自己逃避」といったものは、十中八九私(たち)の霊的成長を妨げるものとして挙げられます。先ほどの言葉を使って申し上げるなら、これらのものは、私(たち)の「霊性」を、「零性」あるいは「冷性」へと行き着かせる、最も手っ取り早いものとも申し上げられるでしょう。

11. これから

スピリチュアリティー(霊性)について、いくつかの事柄を、私自身の修道院での体験、経験などを基に書き記させていただきました。しかし、手短に「結論はこうだ!」ということは書けませんし、また書くべきものでもありません。また、霊性についていろいろと多岐に渡って知っているということと、実際に霊性を高めていく、育んでいくということとは、当然違います。

また、心の領域の問題、あるいは、学問的な領域や文化にも及んでくる問題もありましょうし、毎日の日常の中での積み重ねの問題、そして、この私(たち)には、どのような形でのイエス様への従い方があるのかという、道を極めていく心意気と言えるような問題、また、それをどのように深めていくかという選択の問題等々、いろいろな角度からのアプローチや、実際にしていかなければならない課題があります。

また、先ほどの繰り返しになりますが、ただただ心静かにお祈りをし、聖書を読み、黙想する、それらが大切な信仰の業であるということは、正にその通りですが、そのことを指して言うのではなくて、むしろ、それらがスピリチュアリティー(霊性)の土台となって、イエス様に従っていくためのある方向や実際的な動きへと繋がっていく、その全体をスピリチュアリティー(霊性)と捉えてよろしいのではないかと思います。

多くの方々にとっては「今さら…」と思われるかも知れませんが、私にとりましては「やっと」という表現の方が近いように感じます。しかし、少しずつ、とりわけ修道生活をさせて頂くことを通して、確実に手にでき始めてきたように思います。しかし、さらに大切な問題は、ここに学ばせていただいたこと、気付かせていただいたこと、教えていただいたこと等を、これからの、また日本での様々な生活や働きの中で、いかに整えていくかという次なる課題が与えられています。

12. 最後に

この度の修道院での研修に当たりまして、その機会を備えてくださいましたことを、ここに改めて感謝申し上げます。

特に、東京教区・竹田真主教様、東京教区聖愛教会、東京教区聖職養成委員会の皆様、また酷暑の中、修道院をお訪ねくださった竹内謙太郎司祭に、心から感謝を申し上げます。

また、教派を超えて、快く受け入れてくださり、多くの実りを与えてくださいました聖ドミニコ修道会フィリピン管区管区長ペドレゴーサ神父、聖ドミニコ大修道院院長アラルコン神父、修錬長クルーズ神父、毎晩英語の指導をしてくださったポサダス神父、聖トマス大学で教鞭をとっておられる神父の皆様はじめ、全ての修道士、シスター、またフィリピン滞在中様々なご配慮を下さいました、東京教区より出向しておられる遠藤雅己執事に、この上ない感謝の意を表します。

13. 参考図書

スピリチュアリティー(霊性)に関する書物は、古今東西を問わず、数限りなくありますが、ここにその内のいくつか(ごくわずかですが)を最後に挙げておきたいと思います。

(※本稿は、東京教区宣教委員会刊の小冊子「シリーズ奉仕職を考える Ⅲ」(1997)を著者・関係者の了解のもとに再録したもので、肩書等はすべて発行当時のものです。なお再録にあたり、表記や表現の一部を改めたため、小冊子版とは一部相違が生じていることをご了解ください。)

ページのトップへ戻る