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聖公会祈祷書小史

司祭 ダビデ 市原 信太郎

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 日本聖公会の母体となったイングランド教会(Church of England、しばしば「英国聖公会」、また「英国国教会」とも呼ばれる)がローマ教会より離脱し、聖公会という教会の形成に至る歴史をたどってみると、イングランド教会は教義的というよりも政治的な理由で成立した教会であり、教義面の主な変革は独立後になされたという特徴が浮かび上がる。そしてその過程では、信仰告白などの文書よりもむしろ「祈祷書」という礼拝書が大きな役割を果たすこととなり、これは今日に至るまで世界中の聖公会が共有する、教派としての特色となっている。

 以下、聖公会員の信仰生活にとって大切な祈祷書について、その歴史の概略を綴ってみたいと思う。

目 次

イングランド教会第一祈祷書(1549)

 組織としての聖公会の成立は、1534年ヘンリー8世による「国王至上令」によって、イングランド教会がローマ教会から分離したことによるものであるが、この時点では教会の中にあるものはほとんど従来の通りであった。もともと、宗教改革には反対の立場を強固に保つ、保守的な王であったから、彼の存命中は目立った改革は行われなかった。とは言うものの、その後の祈祷書成立に影響を与えるこの時期のいくつかの出来事を挙げることができる。

 第一に、聖書の英訳である。英訳聖書に関しては、ウィクリフ派が14世紀末にラテン語から英語への翻訳を完成しているが、これは禁書とされた。原典からの直接訳は、ルターによるドイツ語訳を嚆矢とするが、英訳については、人文主義に影響を受けたウィリアム・ティンダルが1525年にケルンで英訳聖書を出版したのが初めである。この聖書と共にティンダルは英国に到達したが、ウルジー枢機卿とヘンリー8世は使者を送り、彼を逮捕した。ティンダルは再度大陸に逃れたが、1535年に再度捕まり、翌年異端として処刑された。

 しかし、彼の翻訳はその後の英訳聖書の基礎となり、また礼拝用書に採り入れられた。1537年、ヨーク大主教エドワード・リー、礼拝で用いられる書簡と福音書が英語で読まれるべきことを命じ、同年出版されたセーラム小祈祷書には英語の使徒書と福音書が収められたが、これはティンダル訳によるものである。これをきっかけとし、さまざまな典礼文が英語訳によって置き換えられていくこととなった。また、1538年にはすべての教会に英語聖書を備え付けるよう指示され、翌年「大聖書(Great Bible)」が出版された。この訳を作成したマイルズ・カヴァーデールの作業も、ティンダル訳に依るところ大である。

 第二に、英語の嘆願(リタニー)の作成である。1544年、ヘンリー8世はスペインとフランスの戦争に介入して派兵するにあたり、危急時の当時の習慣として嘆願(リタニー)を用いさせ、これを英語で作成させた。この内容の多くが、後の祈祷書に用いられた。

 また、カトリック王カール5世が、大陸でプロテスタントを制圧することを決意したことによって、多くの著名なプロテスタント神学者がイングランドに亡命してきた。その中で特に重要な人物は、マルティン・ブーツァーであろう。彼の来英は1549年であり、第一祈祷書の出版には間に合わなかったが、それについての彼のコメントは1552年の第二祈祷書に大きな影響を与えた。

 ヘンリー8世は1546年に世を去り、その後に少年王エドワード6世が即位した。彼は即位の際9歳であり、早熟で才気煥発な人物であったと言われるが、実際の政治運営は庇護者であるサマセット公とノーサンバーランド公によって支配されていた。エドワード6世自身もプロテスタント的傾向を強く持っていたとは言え、この2人は政治的動機ももってプロテスタント的改革をつぎつぎと実行に移した。この中で、1549年の第一祈祷書の発行を見るわけである。

 第一祈祷書の公式の編集作業としては、1548年9月に作業委員会が招集され、それから3週間ほど議論が続けられたのみである。もちろん、このような短期間にすべてが完成するわけがなく、あらかじめカンタベリー大主教トマス・クランマーらが続けていた作業の積み重ねがあってのことであった。この結果としての草稿は王に提出され、議会での承認が求められた。主教たちの中には強い反対意見もあったが、最終的には1549年1月21日、「礼拝統一令 (Act of Uniformity)」が可決されたことをもって、この祈祷書は正式なイングランド教会の祈祷書となった。

第一祈祷書(1549)表紙

 こうして出版された祈祷書は、「イングランド教会の使用にかかる、教会の公祷とサクラメントの執行、およびその他の諸式の書(The Book of the Common Prayer and Administration of the Sacraments, and Other Rites and Ceremonies of the Church after the Use of the Church of England)」と題され、このタイトルはその後の祈祷書に引き継がれて「Book of Common Prayer」、さらに省略して「BCP」と記されることもある。(実は、現在の日本聖公会の祈祷書にもこの題名にあたるものが残っており、目次の手前に「本書は聖なる公会の公祷、聖奠および諸式を載せたもので日本聖公会の所用に属する」と書かれているのがそれである。)実にこの書こそが、それから500年近くにもわたって聖公会の信仰生活を支える基盤となっているのである。

 ちなみに、価格は簡易製本版で2シリング2ペンス、上製本版で4シリングと決められており、入手のしやすさへの配慮があったことが伺える。

 第一祈祷書は、内容的にはセーラム典礼(英国ソールズベリーで用いられていた中世の典型的な典礼様式)を元に、ケルン大司教ヘルマンによる「礼拝指針」や、スペインのキニョーネス枢機卿の小祈祷書、その他様々な礼拝式文より採り入れた資料に依っている。すべての礼拝が英語によること、伝統的な聖務日課が朝夕の礼拝としてまとめられたこと、洗礼式が迷信を廃して公的な性格を回復したことなどは斬新な試みであったが、一方で聖餐式文が「主の晩餐または聖餐、通常はミサと呼ばれる」と題されたことなどに見られるように、全体的には従来の典礼様式に改革的要素を接ぎ木した、という印象も強い。このため、保守派・改革派のいずれをも十分に満足させるものとはならなかった。

 なお、聖職按手式文は当初この祈祷書に含まれず、翌1550年に追加された。

イングランド教会第二祈祷書(1552)

第二祈祷書(1552)表紙

 第一祈祷書(1549)は、「礼拝統一令」によって使用が強制されたが(これは続く祈祷書についても行われた)、刊行の年の聖霊降臨日に実際の使用が開始されるや否や大反対が起き、一部は暴動にまで発展した。クランマーらによる、この祈祷書が意図した礼拝の復興や改革は、長年の礼拝慣行に親しんだ信徒にとっても、また旧来の神学を維持していた聖職者にとっても、受け入れがたいものであった。しかし、「礼拝統一令」は罰則を伴うものであり、これにより失職した主教や司祭もいた。

 一方、宗教改革の流れにある者たちにとっても、第一祈祷書は別の意味で反対の対象となった。多くの点で旧来の慣行が残されていたことにより、その者たちの眼には礼拝改革が不徹底であると映ったのである。特に大陸より亡命してきたブーツァーは、祈祷書全体にわたり60箇所以上の批判を行い、のちにこの多くが取り入れられた。

 興味深いエピソードがある。守旧派の主教ガーディナーが、第一祈祷書の聖餐の教理に反する説教をしたととがめられた際に、聖餐の教理に関するクランマーの論文と、第一祈祷書との不整合を指摘した。ガーディナーの意図は、もちろんクランマーの神学の批判にあったが、意図せぬ逆向きの力として、祈祷書改訂の引き金ともなった。

 政治的には、エドワード6世は幼年王であり、実質的には摂政のサマセット公とノーサンバーランド公によってその治世は支配されていたと言ってよい。この2人は、ある点では政治的思惑を持ってプロテスタント化を推し進めていた。

 このような経緯から、より明確な改革の方向での祈祷書改訂が進められた。こうして、第一祈祷書以来わずか3年で、第二祈祷書が誕生することとなったのである。

 第二祈祷書は、タイトルを含め表紙だけを見ると第一祈祷書とほとんど同一に見えるが、内容は大きく変わっている。一言で言えば、より徹底した形での改革神学への傾斜である。聖餐式におけるこの具体例をいくつか挙げる。

 第二祈祷書発行の翌年1553年、エドワード6世は逝去し、メアリ1世が即位した。ヘンリー8世に離婚されたスペイン王室出身の母を持つカトリックの彼女は、そのゆえに不遇をかこっていたこともあり、直ちに様々な改革をすべて停止・廃止して、カトリックへの復帰を定め、改革派の聖職者たちを大量に処刑した。(カクテルの名にもなった「ブラッディ・メアリ」の異名はここから来ている。)祈祷書作成に大きな役割を果たしたクランマーもその犠牲者の一人となった。

 第二祈祷書は、刊行後わずか8ヵ月ほどで廃止の憂き目にあったが、しかしスコットランドでは使用が続けられ、そこではカルヴァン主義のより直接的な影響によって、さらなる改革の方向へと進んでいったのである。

 このように短命の第二祈祷書ではあったが、しかし現在に至るまで使い続けられている1662年祈祷書(第五祈祷書)は、後述するようにこれを元にしているというべきであって、聖公会祈祷書の基本形となった重要な祈祷書である。

イングランド教会第三祈祷書(1559)

第三祈祷書(1559、1562年印刷)表紙

 メアリ1世により、イングランドにカトリック的な制度が復活すると同時に、プロテスタントの激しい迫害が行われ、多くの人々が処刑された。これを逃れて多くのプロテスタントが大陸に亡命し、そこで改革思想を学んだことは、のちのピューリタン運動など、イングランドでのより急進的な宗教改革の基礎となった。

 メアリ1世によるカトリックへの復帰自体は、まだ改革が浸透しきっていなかったこともあり、民衆の間にそれほど反対を起こすものではなかったが、宗教指導者のみならず多くの庶民をも異端として火刑に処したことは、大きな嫌悪感を引き起こした。加えて、彼女がスペイン王子フェリペ2世と結婚し、それによってイングランドがスペイン対フランスの戦争に巻き込まれるに至って、国民の心は完全に彼女から離れた。彼女は失意のうちに、子を残すこともなく、1558年世を去った。

 続いて即位したエリザベス1世は、カトリックとプロテスタントの二者択一を避け、「エリザベスの宗教解決」と呼ばれる中道の方向を選択した。当初、エリザベスは父ヘンリー8世同様、「教皇抜きのカトリック」を志向したようであるが、メアリ1世の死後大陸から帰国した改革派の人々は、より進んだ形での改革を求めており、その人々との妥協も考慮する必要があった。こうして、1559年の「礼拝統一令」による第三祈祷書が誕生した。

 第三祈祷書は一言で要約するなら、「第二祈祷書の保守的改定版」である。エリザベス自身は第一祈祷書の回復を望んだと考えられるが、第二祈祷書ですら十分に改革的とは言えないという主張に配慮し、こちらを採用したものである。一方、あまりに急進的な改革を望まない人々の支持をも得るために、これをやや保守的な方向に引き戻した。

 これが最も端的に現われているのは分餐語である。前節にて、第一祈祷書と第二祈祷書とで分餐語が変更されたことが、カトリック的性格からプロテスタント的性格への変化を現わす旨述べたが、第三祈祷書ではこの両方の分餐語をつなげている。すなわち、「汝のために与えられし主イエス・キリストの体、汝の体と魂を永遠の命に至るまで護りたまわんことを(第一)。そしてキリストが汝のために死にしことの記念としてこれを食し、信仰によりて汝の心のうちにキリストを食らいて感謝せよ(第二)」のように、大変長いものとなった。

 エリザベスの宗教解決は、単なるカトリックとプロテスタントの間を取るということだけでなく、現在の言葉で言う「政教分離」を一部取り入れたことにも特徴がある。「礼拝統一令」と合わせて成立した「国王至上令」は、ほとんどが父ヘンリー8世のものと同一であったが、「国王はイングランド教会の地上最高の首長」という表現を「最高統治者」に変え、教会の問題は教会の指導者と高等宗務官に委ねる意図を示していた。エリザベスがマシュー・パーカーを主教に任命した際、エドワード時代の主教4名に命じてパーカーを聖別し、歴史的主教制を断ち切らないように配慮したのはこの一例で、これは、国王といえども一信徒であり、主教の聖別は自身の権限が及ぶところではないということであった。

 エリザベスの治世は45年に及ぶ長いものであったが、この期間中、様々な形での改革者との対決を迫られた。少なからぬ改革派の聖職が、第三祈祷書や祭服使用の指示などを公然と無視するなどの混乱が広がっていった。いわゆるピューリタン主義も台頭し、パーカーの後任としてカンタベリー主教に就任したグリンダルは、ピューリタン的と見なされた聖書釈義集会(説教を中心とした修養会)を禁止する旨の女王の命令に服従せず、職務を停止された。国家と教会との関係において、女王がこの両者の最高責任者であるという原則は変わらなかったのである。

 一方で、エリザベスはピウス5世によって破門され、カトリックからも締め出されたが、守旧派も改革派も満足できない中道の道を、至上権によって頑強に押し通す強さを持っていたと言える。

イングランド教会第四祈祷書(1604)

第四祈祷書(1604、1605年印刷)表紙

 エリザベス1世の逝去(1603)によって、チューダー朝は断絶し、スコットランド王がその座にあるままでイングランドの王位をも継承して、イングランドではジェームズ1世と呼ばれることになった。

 すでに長老主義が確立されていたスコットランドの王がイングランド王に即位したことによって、エリザベス1世の時代から台頭していた急進的な改革主義者(ピューリタン)は、自分たちの望む方向での改革が進むものと期待した。一方、国教会の支持者は、ジェームズがスコットランドの長老主義には反対の立場を取ってきたとの見解で、異なる期待を抱いていた。

 1603年、即位の翌月にピューリタンは「千人誓願」を国王に提出し、国教会の祈祷書や礼拝等に対する異議への支持を求めた。これを受け、翌年国王はハンプトン・コート会議を開催したが、会議というよりは事実上国王の結論の宣言であり、ピューリタンが求めた改革はことごとく退けられた。ただしこの会議の中で、「ジェームズ王欽定訳聖書 (King James VersionあるいはAuthorized Version)」の翻訳が認可されたことは、彼らにとっても好ましいことであった。この聖書は、1611年に刊行され、現在も広く愛されている。

 この会議後、第三祈祷書にいくつかの変更を加えた第四祈祷書が1604年に発行された。変更の具体的な例としては、①「赦罪(absolution)」に「罪の赦免(remission of sins)」の語を追加、②国王のための祈りに王室への祈りを追加、③嘆願の最後に感謝の祈りを追加、④個人宅での洗礼は例外的な実践であり、正当な聖職者のみが執行可との宣言、⑤「堅信」のタイトルに「受洗した子供で、次の公会問答に従って信仰について答え得る者に按手すること」を追加、⑥カテキズムの最後にサクラメントについての事項を追加、などであって、これらのほとんどがピューリタン主義とは正反対の、カトリック的な要素を強調する方向であった。

 ピューリタンは一斉にこの祈祷書に反発して早速に批判本を出版し、強く抵抗したが、一方、カンタベリー大主教バンクロフトらは王政のために主教制が必要であると王に説き、王政と主教制が関係づけられた。こうして、ジェームズは王権神授説の強力な信奉者として「主教なければ国王なし」と宣言し、ピューリタンへの妥協を拒否し、弾圧を強めていった。

 ジェームズ1世の死後、その次男チャールズ1世が即位したが(1625)、彼は王権神授説を父以上に強調し、専制政治を進めて、最終的には議会の解散に至った(1629)。議会の解散後は、政府や教会に対する批判はほとんど不可能となり、多くのピューリタンがアメリカ移住などを選択した。

 このチャールズ1世の時代に教会において辣腕を振るったのはウィリアム・ロードであり、後のアングロカトリックの祖とも言える人物で、「カトリック的でありつつ改革された教会」を理想として、「スコットランド祈祷書」を作成した(1637)。この祈祷書は、一言で言えばイングランド教会の祈祷書のカトリック的傾向を一層強めたものであった。

 一方、スコットランドにおいては、すでに長老派の教会としてのスコットランド教会が確立していた(1567)。しかしチャールズは、イングランドとスコットランドの両教会統一を計って、スコットランド祈祷書による礼拝を強制した。これにスコットランド教会が反対し、多くのスコットランド人が抵抗したのに対して、チャールズは「主教戦争」(1639)を起こしたが、たちまちのうちに敗北し、イングランドで11年ぶりに議会を招集した。チャールズは続く「第2次主教戦争」にも敗れ、再度議会を開催せざるを得なくなった。この中で、主教らによる教会統治の廃止が決定され、ロードは投獄、そして1642年には内戦が勃発し、ピューリタン革命が始まった。最終的にはクロムウェルらに率いられたピューリタン側が勝利し、主教制は廃止され、ロードやチャールズは処刑された。

イングランド教会第五祈祷書(1662)

現代でも使用されている第五祈祷書
(現在市販されているもの)

 ピューリタン革命勃発後、長老派が多数を占める議会は「ウェストミンスター会議」を招集し、この会議にて教皇制・主教制の廃止や長老制の擁護が定められた。また、現在でも長老派にとって重要な「ウェストミンスター信仰告白」や「大教理問答」「小教理問答」もこの会議で作成されたものである。こうして、イングランド教会は長老派教会となった。

 1649年の国王チャールズの処刑によって、王政は廃止され、共和制の時代となった。ピューリタン革命を勝利へと導いた指導者クロムウェルはこの政府の実権を掌握し、新政府に抵抗するアイルランドに侵攻、またチャールズ2世を匿ったスコットランドをも攻め、チャールズ2世はフランスに亡命した。こうして権力を増したクロムウェルは、やがて議会を解散して終身の護国卿となり、専制政治を行うようになったため、強い反発を招いた。1658年の彼の死後、後を継いだ息子リチャードはこの反発を抑えることができず翌年辞任、護国卿政治は幕を閉じた。

 このような情勢の中、国民の多くは王政の復活を望むようになっており、チャールズ2世は1660年、人々が熱狂的に迎える中ロンドンに帰国した。これは祈祷書の復権をも意味し、早速各教会での祈祷書の使用が命じられた。

 国王の帰国に先立ち、長老派の代表は亡命先で国王と会見して、祈祷書の復活を防ごうと試みたが、国王はそれを拒絶した。これに代表されるような長老派との対立関係の調停のため、翌年「サヴォイ会議」が招集されたが、国教会側は以前の祈祷書そのままという立場、一方で長老派側は大幅な改革を主張し、溝は深まるばかりであった。

 長老派側が挙げた反対点には、陪餐でひざまずくこと、洗礼で十字の印をすること、幼児洗礼で教父母が代わりに答えること、私宅洗礼(全面的廃止を主張)、アポクリファ(旧約聖書続編)からの朗読、「司祭」という語の使用、結婚式での指輪の使用、などがある。また、祈祷は書かれた祈祷文を読むのではなく自由祈祷であるべきとも主張した。これらのほとんどは受け入れられず、唯一祈祷書内の聖書本文が欽定訳に置き換えられたことだけが、長老派にとっての好ましい変化であった。この祈祷書によって、国教会とそれ以外の教派、ことに長老派との間に明確な境界が定められたとも言えよう。この祈祷書の改訂においては、長老派のみならずロード派(ハイチャーチ派)も大きな影響を与えることはできず、結果として第二祈祷書の路線が受け継がれることとなった。

 1661年末には、改訂された新祈祷書がカンタベリーとヨーク両会議で認可され、議会の協賛も得て、翌1662年に新しい「礼拝統一令」と共に第五祈祷書が刊行された。第五祈祷書は、基本的には1604年版第四祈祷書の再発行に近い内容ではあるが、以下のような変更が加えられている。

 この祈祷書は、今に至るまでイングランド教会の公式の祈祷書であり続けており、20世紀半ばに至るまで各国聖公会の祈祷書の底本でもあった。

筆者の書棚に並ぶ様々な祈祷書

 以上、イングランド教会祈祷書の歴史をたどってきた。「聖公会の伝統」と呼ばれるこの祈祷書が成立していく過程から改めて思うことは、教会の伝統とは過去のある一点に固定された変更不可能なものではなく、常にそれを解釈し続ける動的な営みであるということである。その不断の営みが、今日に至るまで私たち聖公会員の信仰生活を支えているのである。

参考文献

なお、画像についてはhttps://en.wikipedia.orgやhttps://archive.orgより、public domainと宣言されているものを引用した。

(本稿は、著者が聖アンデレ教会報「さかえ」や大森聖アグネス教会報「馬ごめ便り」に寄稿したものに加筆・修正を加えたものです。)

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