キリスト教の死生観―主教座聖堂 教役者レクイエム説教(2018.12.19)

司祭 フランシスコ・ザビエル 髙橋 宏幸

+ 父と子と聖霊のみ名によって アーメン


墓は空であった (cf. ルカ24:12)

 キリスト教が、約二千年間一日として変わることなく柱にしているのが、復活の信仰、甦りの信仰です。そして、私たちはこの信仰を恵みとしていただいてもいます。

 ただ、ことさら現代のように科学文明が日進月歩で進んでいる中では、「復活なんて、死んだ人間が甦るなんて実に非科学的である」とか、「復活など、荒唐無稽な作り話に過ぎない」と言われることもあります。

 けれども、キリスト教が未だに大事にしている甦りとは、神様から授かっている尊い命の繋がりの中に生き、生かされ続けることであります。

 亡くなった先人、先達たちを遥か彼方の向こう側に見て、私たちはこちら側にいるというのではありません。


 「甦り」という文字を思い浮かべてみますと、「更に」という文字と「生きる」という文字とが組み合わさっています。「更に生きる」、あるいは「新たに生き始める」という印象を私は持ちます。

 さらにこのことは、先立たれた方々のことだけではなしに、今を生き、生かされている私たちの有り様をも問うているものと言えましょう。

 「先立たれた方々は、亡くなってしまったから仕方ない、従って更に、新たに生きるという枠組みからは外れてしまった方々」ということで闇に葬り、遠ざけ、亡くなられた方を徐々に忘却へと追い遣ることが、今、私たちがしようとしていることなのでしょうか?それとも反対に、その方々をこれからも覚え続け、心の内に生かし続け、私たちの命の営みの糧、道標としようとするのでしょうか?


 実は、教会のご葬儀や今日のような記念式が目指していること、大事にしていること、即ち今、私たちが此処で、このように行っていることは、今申し上げた後者のこと、つまり、「これからも覚え続け、心の内に生かし続け、私たちの命の営みの糧とすること」であり、そういう形で更に、あるいは新しく生かし続けること、生き続けていただくことに他なりません。


 私たちの人生に於いて「出会い」と「別れ」は付きものです。「出会い」は嬉しいものであり、心に響きや力を与え、私たちを豊かにしてくれますが、「別れ」ということとなりますと、辛くて悲しいもの、出来ることなら避けて通りたいもの、無いことにしたいものという受け止め方が自然であり、一般的であり、人間的であるとも言えましょう。

 そのような私たちの心の有り様の一方で、キリスト教の心とは、いかにして、私たち人間が願っていること、望んでいることが自分の思う通りに叶ったか、あるいは叶わせるかで成り立っているのではなしに、いかにして、自分が置かれている状況や、自分の目の前で起こっている事柄を受け容れることができるだろうかという、そのことによって成り立っているはずです。

 多くの先人、先達たちが、ご自身に授かった尊いご生涯を通して、私たちにも示し、与えて下さった信仰とは、この受け容れる、担い合う信仰でもあるということです。


 今、「出会い」と「別れ」ということを申し上げましたけれども、そもそも、私たちに授けられている信仰に於いては「お別れ」ということを根本的に否定します。

 火葬場に参りますと、いよいよ火葬にされる直前、マニュアルに沿ってでしょうか、職員の方が言います。「お名残尽きませんが、お別れです」と。私は何十回以上も、三桁に達するほどこの言葉を耳にしてまいりましたが、その都度心の中で思っていました。

 「お別れではない、お仕舞いでもない、The Endでもない。これからも繋がり続けていくのだ。命の繋がりとは、そんな薄っぺらなものではない!」と。

 確かに、私たちは、何方かの死に接した時、ふと当たり前のように「お別れです」という言葉を口にします。けれども、私たちに授けられている信仰に於いては、寧ろ、そのようなことを真っ向から否定いたします。と申しますのは、目の前で起こったことを受け止めようとするものの、遠ざけようとか、ましてや無いことにしようとはしないからです。


 お姿が見えなくなる、声を聴けなくなる、手を伸ばせば感じられた温もりが冷たくなっていく、温もりに触れられなくなるということは、確かに起こると言わざるを得ません。言わざるを得ませんけれども、死という悲しく、辛い出来事を通して、一方では、それ迄見えずにいたこと、見逃していたこと、聴こえずにいたこと、聞き逃していたことが、改めて見え始めてくる、聴こえ始めてくるということが起こり得ます。あるいは、あの時なさったこと、おっしゃった何かは、こういう意味だったのか、このような心が込められていたのかといったことが、鮮やかに見え、聴こえ始めることがあります。

 そして、そういうものを私たちの中で財産のようなものとしていくことができるのであれば、それは先輩がたへの感謝となり、そのご生涯と死を尊ぶことにもなるはずです。

 そして、そのことをして、キリスト教が言う「天国へとお送りする」ということが言えてくることになるはずです。


 そもそも、キリスト教の信仰とは、「授かった命を人びととどう生きようか?」という、命のつながりの中に在り続けることを問い続け、祈り続ける信仰です。

 そして、そこにこそ命の輝き、命の豊かな時間が厳然として生み出されてまいります。そのような命への有り様を指して、キリスト教では「神を信じる!」と言ってきたはずです。

 神を信じるとは、何か訳の分からないおぼろげな物が在ると思い込むことではありません。そうではなしに、古(いにしえ)の人が「神」と名付けた、その大きな、豊かな命を単に「私の命」に留め置くのではなしに、「私たちの命」という更に大きな括りの中で、授かった命に対する労り、誠実さ、謙虚さ、優しさとともに、命の繋がりの中で、人を生かし、人に生かされることであります。

 それは、聖職、教役者として献身、奉仕をしてこられた先人、先達たちをして私たちに示してくださったことのはずです。


 私たち人間、即ち、この世に生を受けた一人一人として誰一人例外なく、いつの日か静かに受け入れなければならない荘厳なものがあります。それは、人生の一つの大きな区切りである死です。

 死は確かに悲しみや辛さを与えもしますが、同時にキリスト教の信仰に立って申し上げるなら、死とは、その方が神から与えられた人生を、この世にたった一人しかいない自分自身として誇りを持って生きて来られた、その人生の結果と言えるのではないでしょうか。


 人として、時に喜び、笑い、泣き、怒り、人間としての感情を持ちながら生きて来た一人ひとりが迎えた尊い人生の節目でこそあれ、死は決して私たちを抹殺したり、抹消したりするものではありません。第一、死にはそのような力など、本来かけらほどもありません。


 限られた時間でありますけれども、教役者としての献身、奉仕をしてこられた方がたの魂の平安を祈りながら、神様の懐での安息を祈り続けたいと思います。

使用画像:白ダリア~花言葉は「感謝」 posted by (C)jiroh